ブリジットとアメリアが揃って店に入ると、2人の女性店員がすぐに駆けつけてきた。「まぁ、これはようこそお越しいただきました」「本日もドレスを御覧になられるのですね?」女性店員達は交互にブリジットとアメリアに話しかける。「ええ。そうだけど……でも、ドレスを選びに来たのは私たちではないわ。彼女よ」 ブリジットは背後にいるイレーネを振り返る。「は……? こちらの……女性ですか……?」「冗談ではありませんよね……?」メガネをかけた女性店員はクイッとフレームをあげてイレーネを見つめる。「はい、冗談ではありません。本気で、こちらのブティックでドレスを買いたいと思います。何しろ、こちらはマダム・ヴィクトリアという一流デザイナーの方がデザインしたドレスなのですよね? 一流のドレスは着る人を選ぶことは無い、一流だからこそ、誰にでもぴったり似合うドレスを作れるのですよね? 是非、私のような者でも着こなせるドレスを選んでいただきたいのです。こちらのお店で!」イレーネはキラキラ目を輝かせながら、熱く語る。そんな彼女に圧される4人の女性。「ま、まぁ……確かに、マダム・ヴィクトリアはこの町一番のデザイナーではありますが……」「そうですね。一流の店は、誰にでも似合おうドレスを提案できるからこそ、一流なのかもしれませんし……」自分たちの店を一流と褒められ、女性店員たちは気を良くしている。「折角来店されたのですから、選んでみましょうか?」「そうですね、試着だけでもいいかもしれませんね」そこで女性店員たちはイレーネに提案してきた。「本当ですか? ありがとうございます!」笑顔でお礼を述べるイレーネ。「ええ。ではどうぞ奥の試着室でまずは採寸いたしましょう」「ご案内いたしますね」「はい」イレーネは女性店員に連れられ、試着室へ向かう。そしてそんな様子を唖然とした目で見つめるブリジットとアメリア。「ちょ、ちょっとどういうこと……てっきり断られるかと思ったのに」「単なる貧しい女だと思っていたけど……中々口が上手いわね……」ブリジットとアメリアはコソコソ話しだした。「ブリジット、私たちはどうすればいいのよ? 何だかおかしなことになっちゃったわね。もう帰る?」「何言ってるのよ、アメリア。これからが面白いんじゃない。どうせこの店のドレスは高くて手が出せない。買え
試着室へ入ると、早速イレーネは採寸するために肌着姿になった。すると、2人の女性店員が口々にイレーネを褒め称えた。「まぁ! こんなに細いウェストを見るのは初めてだわ!」「手足も細いのに、足には適度に筋肉がついているし……これなら高いヒールの靴を履いても歩けそうだわ!」「筋肉よりも、スタイル! なんてスタイル抜群なんでしょう! これならコルセットも必要ないくらい!」2人の女性店員は興奮が止まらない。けれど、イレーネのスタイルが良いのは当然のことだった。何処へ行くにも歩いていくし、質素な食事生活をおくっていたのだから。2人の女性店員がイレーネのスタイルを褒め称えている姿をブリジット達は悔しげに見ている。「な、何よ……あんなの。た、ただちょっと細いだけじゃないの……」「だ、だけど出るところは出て、引っ込んでる部分はちゃんと引っ込んでるわよ……」しかし、ブリジットは意地悪そうな笑みを浮かべてアメリアの耳に囁く。「でも、あんな貧しそうな女にこのブティックの服が買えるはずないわ。身の程知らずでこの店に来たのだから、恥をかくに決まっているわよ」「そ、そうよね。買えるはず無いわよね。値段を聞いて驚くあの女の顔が見ものだわ」コソコソと話し合う2人をよそに、店員によるイレーネのドレス選びが始まった。「どうです? こちらのドレスは今最先端のドレスですよ。特にウェストの細さを強調できるドレスです」「こちらのデイ・ドレスはとても上品なデザインです。バッスル部分が特徴なのですよ」次々と着せ替え人形のごとく、様々なドレスを試着させられるイレーネ。しかし、そのどれもがスタイル抜群なイレーネに良く似合っていた。当然、ブリジットとアメリアは面白くない。「ふ、ふん。いくらスタイルが良くたって、買えなければどうにもならないのだから」「ええ、そうよ。あの店員達ったら、ドレスを合わせるばかりで肝心な彼女の懐事情を忘れているのかしら」その後もイレーネの試着は続き……12着目の試着を終えた頃――「あの、もうそろそろこのあたりで大丈夫です」イレーネが女性店員2人に声をかけた。「え? さようでございますか?」「まだまだお客様にお似合いになりそうなドレスが沢山ありますのに……」女性店員たちは残念そうな表情を浮かべる。「ええ。それで今まで試着したドレス、合計でおいくら位
「まぁ! この小切手は……! は、はい! すぐにお包みいたしますね!」「お買い上げ、ありがとうございます!」2人の女性店員はペコペコと頭を下げる。「いいえ。こちらこそ素敵なドレスを選んでいただき、ありがとうございます。このお店に来て、本当に良かったですわ」笑顔のイレーネの姿に、青ざめるのはブリジットとアメリアだった。「ええっ!? ど、どういうことよ! あんな貧乏そうな女が平気で小切手を手渡すなんて!」アメリアがブリジットに小声で詰め寄る。「そ、そんなこと聞かないでよ! 私が知るはず無いでしょう! それにしても……あの女、一体何者なの……だけど……」気の強いブリジットは、店員たちがイレーネにペコペコする姿が気に入らない。「……何だか面白くないわ。これ以上ここにいても不愉快よ、帰りましょう。アメリア」「え? いいの? 彼女に一言も声をかけずに帰っても」「いいのよ。だって私たち、あの女の名前だって知らないじゃない」フンと腕組みするブリジット。今もイレーネは女性店員たちと親しげに会話をしている。「言われてみれば確かにそうね……それじゃ、帰りましょうか?」「ええ、帰りましょう」そしてブリジットとアメリアは談笑するイレーネたちに声をかけずに、店を後にした。もう少し店に残っていれば、もっと驚きの事実を知ることになったはずだったのに……。そんなことは露とも知らず、店員はイレーネに次の商品を勧める。「ところで、お客様。ドレスだけではなく、他にも靴やアクセサリーも当店でそろえられてみてはいかがですか?」「ええ、そうです。当店には有名なジュエリーデザイナーに靴職人も抱えているのですよ?」上客を逃してなるものかと、店員たちの接客は続く。「そうですね……一式、全て揃えられるならこちらでお願いします。私、どうしても自分の価値を上げなければならないので」頷くイレーネ。普段の彼女なら絶対にこのような買い物はしない。しないのだが、今回だけは特別だった。何しろ、ルシアンの祖父に認めてもらうために自分の価値を上げなければならないのだから。「ええ! お任せ下さい!」「私たちの手にかかれば、トップレディにだってなれます!」何とも頼もしい女性店員の言葉にイレーネは笑顔になる。「本当ですか!? ありがとうございます!」こうして、その後もイレーネの買い物
イレーネがマダム・ヴィクトリアの店を出たのは15時を過ぎていた。「まぁ……もう、こんな時間だったのね。どうりでお腹が空いたはずだわ」祖父の形見である懐中時計を見ると、イレーネはため息をつく。「どうしましょう……このままマイスター家に戻っても、夕食までは程遠いわね。それにしても試着するだけなのに、こんなに体力を使うとは思わなかったわ」1日2食の生活は慣れていた。ただ、今回は慣れない試着作業でお腹を空かせてしまっていたのだった。「何処かで軽く食事を済ませてからマイスター家に戻ったほうが良さそうね。何か食べるものを用意して下さいなんて言ってご迷惑をかけるわけにはいかないし」本来であれば、イレーネはルシアンの内定の妻。リカルドに軽食の要望を伝えれば、すぐにでも食事を用意してもらえる立場に自分があることを理解していなかったのだ。「さて、今度は食事が取れるお店を探そうかしら」そしてイレーネは鼻歌を歌いながら、マダム・ヴィクトリアの店を後にした――****16時半――「……はぁ〜……」書斎で仕事をしていたルシアンがため息をつく。「ルシアン様、またため息ですか? 既に7回目になりますよ? お茶でも飲まれてはいかがですか?」ルシアンにお茶を勧めるリカルド。「リカルド……」「はい、何でしょうか?」「お前は何回俺に茶を飲ませようとする? もうすでに5回目になるぞ?」恨めしそうな目でリカルドを見る。「やはり……おひとりで行かせるべきではなかったのではありませんか?」その言葉に、ルシアンの肩がピクリと動く。「一体、何の話だ?」「とぼけないで下さい、イレーネさんのことですよ。あの方のことが心配で、仕事もろくに手がつかないのではありませんか? 先程から同じ書類ばかり目を通されていますよ」「ち、違う! 書類を見直していただけだ!」リカルドに指摘され、慌ててルシアンは書類を取り替える。「全く、ルシアン様は素直になれないお方ですね……正直にイレーネさんのことが心配だと言えばよいではありませんか? だから本日は外出せずに、こちらでお仕事をされているのですよね? 昼食の時間も心、ここにあらずといった様子でしたし」するとルシアンも言い返す。「そういうお前こそ、イレーネ嬢のことが心配でたまらないのではないか? 今日は用もないのに、何度もエントランスまで
書斎に通されたイレーネは疲れ切った様子のルシアンとリカルドを見て首を傾げた。「ルシアン様もリカルド様も本日はお忙しかったのですか? 随分疲れた御様子にみえますが?」「「は……??」」イレーネの言葉に呆れる2人。そしてルシアンは咳払いするとイレーネに質問をした。「イレーネ嬢、先程も尋ねたが……今まで何処に行っていたのだ? 昼食の時間になっても戻ってこないので、何か遭ったのではないかとリカルドが心配していたんだぞ?」「はい!?」いきなり、リカルドは自分の名前を出されて度肝を抜かれた。「ル、ルシアン様……? 一体今の話は……」しかし、リカルドはそこで言葉を切った。何故ならルシアンが自分のことを睨みつけていたからである。「まぁ……そうだったのですか? リカルド様、御心配おかけしてしまい大変申し訳ございませんでした」イレーネは丁寧に謝罪した。「い、いえ。確かにとても心配は致しましたが……こうして無事にお帰りになられたので良かったです。それでイレーネさん、何故ここまで遅くなったのか教えて頂けませんか?」「はい、親切なお方にお会いして、自分の価値を上げてまいりました。ついでにお腹が空いてしまったので、軽く食事を済ませてきたので遅くなってしまいました。でもまさかそれほどまでにリカルド様に心配されていたとは思いませんでした。重ねてお詫び申し上げます」「い、いえ。そんなに丁寧に謝らなくても大丈夫ですよ。イレーネさん」美しいイレーネにじっと見つめられ、思わずリカルドの頬が赤くなる。(何なんだ? リカルドの奴は……? まさか、イレーネ嬢に気があるのか?)自分でリカルドに話をふっておきながら、何故かルシアンは面白くない。そこで大きく咳払いすると、呼びかけた。「ゴホン! ところでイレーネ嬢」「はい、ルシアン様」「先程、自分の価値を上げてきたとか何とか言っていたようだが……一体それはどういう意味なのだね?」「そうです! 私もそのことが気になったのです!」リカルドが口を挟んできた。「はい、本日はルシアン様の契約妻として恥じないように身なりを整えようと思い、ブティックを探しておりました。そこへ2人の親切な女性が現れて、私をマダム・ヴィクトリアというお店に連れて行ってくださったのです。そうそう、そのうちの1人の女性はブリジットという名前の女性でした。確か
「あの……ブリジット様がどうかなさったのですか?」イレーネは首を傾げた。まさかブリジットがルシアンに恋心を抱き、マイスター家に度々赴いていることなど知るはずもなかったからだ。「あの……実はブリジット様は……」リカルドが重い口を開こうとした時。「イレーネ嬢。彼女のことは気にする必要は無い。昨年開かれた社交パーティーでたまたま知り合っただけの女性だ。本っ当に、気にする必要はないからな?」とくに、ブリジットはルシアンが一番苦手なタイプの女性だった。彼女のことを考えただけで、不愉快な気分になってくるルシアンは早々にこの話を終わらせたかったのだ。「そうなのですか? でもルシアン様が気にする必要は無いとおっしゃるのでしたらそうします」人を詮索することも、無理に聞き出すこともしないイレーネはあっさりと頷く。「ああ、是非、そうしてくれ」2人の会話に慌てたのはリカルドだった。「お待ち下さい、それよりももっと肝心なことがあります。イレーネさんはブリジット様に自己紹介なさったのですか?」「いいえ? あの方たちからは名前を聞かれることも無かったので、自己紹介はしておりません」「そ、そうですか……それなら良かったですが……」イレーネの返事に、安堵のため息をつくリカルド。「とにかく……今度から外出した際、遅くなるようなら電話をかけてくれるか? ここの書斎の電話番号と、屋敷の電話番号は知っているのだろう?」ルシアンの言葉に、イレーネはパチンと手を叩いた。「あ、言われてみればそうでしたね? 申し訳ございません、あまり電話をかけることにはなれていなかったものですから。何しろ、『コルト』ではまだあまり電話が普及しておりませんので」「イレーネさん。『デリア』では駅前には公衆電話というものがあります。お金を入れると電話をかけることが出来ます。もし、よろしければ明日私がお供して公衆電話の掛け方を教えてさしあげましょうか?」リカルドの言葉にルシアンは反応する。「いいや、それは無しだ。明日は製粉会社の社長と会食がある。お前もそれに出席するのだ」「え!? そ、そんな話は初耳ですけど!?」「ああ、それはそうだろう。今初めて伝えたからな」そこへイレーネが会話に入ってきた。「あの、私なら1人でも大丈夫ですので。それに明日は外出することは無いと思います。マダム・ヴィクトリア
その日の夕食のこと――「え? 今、何と言ったのだ?」イレーネと2人で向かい合わせに食事をしていたルシアンのフォークを持つ手が止まった。「はい、ルシアン様。どうか私には専属のメイドの方を付けないで下さいと言いました」そしてイレーネは切り分けた肉を口に運び、ニコリと笑みを浮かべる。「いや、しかしそれでは色々と不便だろう? 君を手伝うメイドは必要だと思うが?」現にルシアンのもとには、自分をイレーネの専属メイドにして欲しいと訴え出てきたメイドたちが後を絶たなかった。けれどもルシアンはイレーネ自身に選ばせようと考えていたのだ。「いいえ、私のことなら大丈夫です。今まで自分のことは何でも1人でしてきましたので。第一私は祖父の介護に、メイドとして2年働いていた経験もあります。逆に私に使えるメイドの方たちに気を使ってしまいますわ」「だが、君は俺の……」「はい、1年間という期間限定の雇われ契約妻です。そんな私に専属メイドは分不相応です。それにあまりにも密接だと、この結婚の秘密がバレてしまう可能性もあるかもしれません」「う……た、確かにその可能性はあるが……だが、それでも……」すると、今までに見せたことのないしんみりとした表情を浮かべるイレーネ。「私は1年でこの屋敷を去る身です。あまり親密な関係になると……別れ難くなりますから」「え……?」その言葉にドキリとするルシアン。(まさか……今の言葉は俺に向けて言ってるのか?)しかし、イレーネの口から出てきた言葉は予想外の物だった。「やはり、専属メイドの方がつけば親密な関係になりますよね? お別れする時寂しくなるではありませんか?」「は? ……もしかして、別れ難いとは……自分の専属メイドがついた場合のことを言ってるのか?」「え? ええ、そうですけど?」頷くイレーネ。「あ、ああ……そうか、なるほどね……」思わずルシアンの声が上ずる。(俺は一体何をバカなことを考えていたんだ?)ルシアンは動揺を隠すために、ワイングラスに手を伸ばして一気飲みした。「分かった。イレーネ嬢の言う通りにしよう。君に専属メイドはつけない。それでいいな?」いくら給金を支払うとは言え、この離婚前提の契約結婚でイレーネの人生を狂わせてしまうかもしれない……そう考えると、ルシアンは言うことを聞かざるを得なかった。「ご理解、頂きあ
翌朝――いつものようにイレーネとルシアンはダイニングルームで朝食を取っていた。「イレーネ。今日はどのように過ごすのだ?」ルシアンがパンにバターを塗りながら尋ねる。「はい、午前10時にマダム・ヴィクトリアのお店から品物が届きます。クローゼットの整理が終わり次第、外出してこようかと思っています」そしてイレーネはサラダを口にした。「外出? 一体何処へ行くのだ?」昨日のこともあり、ルシアンは眉をひそめた。「生地屋さんに行こうと思っています」「生地屋……? 布地を扱う店のことだよな?」「はい、その生地屋です」「生地を買ってどうするのだ?」「勿論、自分の服を仕立てる為です」「何!? 自分で服を仕立てるのか? そんなことが出来るのか?」ルシアンの知っている貴族令嬢の中で、イレーネのように服を仕立てる女性が居た試しはない。「はい、私の趣味は自分で服を作ることなので。他にすることもありませんし」イレーネは働き者だった。朝は早くから起きて畑を耕して食費を浮かし、服を仕立てては洋品店に置かせてもらって細々と収入を得ていたのだ。じっとしていることが性に合わないので服作りをしようかと考えたイレーネ。だがルシアンは別の解釈をしてしまった。「イレーネ……」(そうだよな、ここにはイレーネの知り合いは誰一人いない。友人でも出来れば寂しい思いをしなくても良いのだろうが……何しろ1年後には離婚をする。そんな状況で親しい友人が出来たとしても、将来的に気まずい関係になってしまうかもしれないしな……)「ルシアン様? どうされたのですか?」急にふさぎ込むルシアンにイレーネが声をかけた。「い、いや。そうだな……君の考えを尊重しよう。……その、色々と……申し訳ないと思っている……」「え? 何故謝るのですか? 何かルシアン様から謝罪を受けるようなことでもありましたか?」「いいんだ、それ以上言わなくても。ちゃんと分かっている、分かっているんだ。何とか対応策を考える。それまで……待っていてくれないか?」「対応策ですか……?」そして、イレーネはルシアンの言葉の真意を理解などしていない。(もしかして、洋裁道具を揃えて下さるということかしら? だったらこの際、ルシアン様のご好意に甘えてお願いしておきましょう)「分かりました、ではお待ちしておりますね。よろしくお願いいた
馬車が到着したのは、デリアの町の中心部にある市民ホールだった。真っ白な石造りの大ホールを初めて目にしたイレーネは目を丸くした。「まぁ……なんて美しい建物なのでしょう。しかもあんなに大勢の人々が集まってくるなんて」開け放たれた大扉に、正装した大勢の人々が吸い込まれるように入場していく姿は圧巻だった。「確かに、これはすごいな。貴族に政治家、会社経営者から著名人まで集まるレセプションだからかもしれない……イレーネ。はぐれないように俺の腕に掴まるんだ」ルシアンが左腕を差し出してきた。「はい、ルシアン様」2人は腕を組むと、会場へと向かった。「……ルシアン・マイスター伯爵様でいらっしゃいますね」招待状を確認する男性にルシアンは頷く。「そうです。そしてこちらが連れのイレーネ・シエラ嬢です」ルシアンから受付の人物にはお辞儀だけすれば良いと言われていたイレーネは笑みを浮かべると、軽くお辞儀をした。「はい、確かに確認致しました。それではどう中へお入りください」「ありがとう、それでは行こうか? イレーネ」「はい、ルシアン様」そして2人は腕を組んだまま、レセプションが行われる会場へ入って行った。「まぁ……! 本当になんて大勢の人たちが集まっているのでしょう!」今まで社交界とは無縁の世界で生きてきたイレーネには目に映るもの、何もかもが新鮮だった。「イレーネ、はしゃぎたくなる気持ちも分かるが、ここは自制してくれよ? 何しろこれから大事な発表をするのだからな」ルシアンがイレーネに耳打ちする。「はい、ルシアン様。あの……私、緊張して喉が乾いておりますので、あのボーイさんから飲み物を頂いてきても宜しいでしょうか?」イレーネの視線の先には飲み物が乗ったトレーを手にするボーイがいる。「分かった。一緒に行きたいところだが、実はこの場所で取引先の社長と待ち合わせをしている。悪いが、1人で取りに行ってもらえるか? ここで待つから」「はい、では行って参りますね」早速、イレーネは飲み物を取りにボーイの元へ向かった。「すみません、飲み物をいただけますか?」「ええ。勿論です。どちらの飲み物にいたしますか? こちらはシャンパンで、こちらはワインになります」 ボーイは笑顔でイレーネに飲み物を見せる。「そうですね……ではシャンペンをお願い致します」「はい、どうぞ
ルシアンが取引を行っている大企業が開催するレセプションの日がとうとうやってきた。タキシード姿に身を包んだルシアンはエントランスの前でリカルドと一緒にイレーネが現れるのを待っていた。「ルシアン様、いよいよ今夜ですね。初めて公の場にイレーネさんと参加して婚約と結婚。それに正式な次期当主になられたことを発表される日ですね」「ああ、そうだな……発表することが盛り沢山で緊張しているよ」「大丈夫です、いつものように堂々と振る舞っておられればよいのですから」そのとき――「どうもお待たせいたしました、ルシアン様」背後から声をかけられ、ルシアンとリカルドが同時に振り返る。すると、濃紺のイブニングドレスに、金の髪を結い上げたイレーネがメイド長を伴って立っていた。その姿はとても美しく、ルシアンは思わず見とれてしまった。「イレーネ……」「イレーネさん! 驚きました! なんて美しい姿なのでしょう!」真っ先にリカルドが嬉しそうに声を上げ、ルシアンの声はかき消される。「ありがとうございます。このようなパーティードレスを着るのは初めてですので、何だか慣れなくて……おかしくはありませんか?」「そんなことは……」「いいえ! そのようなことはありません! まるでこの世に降りてきた女神様のような美しさです。このリカルドが保証致します!」またしても興奮気味のリカルドの言葉でルシアンの声は届かない。(リカルド! お前って奴は……!)思わず苛立ち紛れにリカルドを睨みつけるも、当の本人は気付くはずもない。「はい、本当にイレーネ様はお美しくていらっしゃいます。こちらもお手伝いのしがいがありました」メイド長はニコニコしながらイレーネを褒め称える。「ありがとうございます」その言葉に笑顔で答えるイレーネ。「よし、それでは外に馬車を待たせてある。……行こうか?」「はい、ルシアン様」その言葉にリカルドが扉を開けると、もう目の前には馬車が待機している。2人が馬車に乗り込むと、リカルドが扉を閉めて声をかけてきた。「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネさん」「はい」「行ってくる」こうして2人を乗せた馬車は、レセプション会場へ向かって走り始めた。「そう言えば私、ルシアン様との夜のお務めなんて初めての経験ですわ。何だか今から緊張して、ドキドキしてきました」イレーネ
「こちらの女性がルシアンの大切な女性か?」イレーネとルシアンが工場の中へ入ると、ツナギ服姿の青年が出迎えてくれた。背後には車の部品が並べられ、大勢の人々が働いていた。「え?」その言葉にイレーネは驚き、ルシアンを見上げる。しかし、ルシアンはイレーネに視線を合わせず咳払いした。「ゴホン! そ、それでもう彼女の車の整備は出来ているのだろうな?」「もちろんだよ。どうぞこちらへ」「ああ、分かった。行こう、イレーネ」「はい、ルシアン様」青年の後に続き、イレーネとルシアンもその後に続いた。「どうぞ、こちらですよ」案内された場所には1台の車が止められていた。何処か馬車の作りににた赤い車体はピカピカに光り輝いており、イレーネは目を輝かせた。「まぁ……もしかしてこの車が?」イレーネは背後に立つルシアンを振り返った。「そう、これがイレーネの為の新車だ。やはり、女性だから赤い車体が良いだろうと思って塗装してもらったんだ」「このフードを上げれば。雨風をしのげますし、椅子は高級馬車と同じ素材を使っていますので座り心地もいいですよ」ツナギ姿の男性が説明する。「ルシアン様の車とはまた違ったデザインの車ですね。あの車も素敵でしたが、このデザインも気に入りました」イレーネは感動しながら車体にそっと触れた。「まだまだ女性で運転する方は殆どいらっしゃいませんが、このタイプは馬車にデザインが似ていますからね。お客様にお似合いだと思います」「あの、早速ですが乗り方を教えてください!」「「え!? もう!?」」ルシアンと青年が同時に驚きの声をあげた――**** それから約2時間――「凄いな……」「確かに、凄いよ。彼女は」男2人はイレーネがコース内を巧みなハンドルさばきで車を走らせる様を呆然と立ち尽くしてみていた。「ルシアン、どうやら彼女は車の運転の才能が君よりあるようだな?」青年がからかうようにルシアンを見る。「あ、ああ……そのようだ、な……」「だけど、本当に愛らしい女性だな。お前が大切に思っていることが良くわかった」「え? な、何を言ってるんだ?」思わず言葉につまるルシアン。「ごまかすなよ。お前が彼女に惚れていることは、もうみえみえだ。女性が運転しても見栄えがおかしくないようなデザインにしてほしいとか、雨風をしのげる仕様にして欲しいとか色々
10時――イレーネは言われた通り、丈の短めのドレスに着替えてエントランスにやってきた。「来たか、イレーネ」すると既にスーツ姿に帽子を被ったルシアンが待っていた。「まぁ、ルシアン様。もういらしていたのですか? お待たせして申し訳ございません」「いや、女性を待たせるわけにはいかないからな。気にしないでくれ。それでは行こうか?」早速、扉を開けて外に出るとイレーネは声を上げた。「まぁ! これは……」普段なら馬車が停まっているはずだが、今目の前にあるのは車だった。「イレーネ、今日は馬車は使わない。車で出かけよう」「車で行くなんて凄いですね」「そうだろう? では今扉を開けよう」ルシアンは助手席の扉を開けるとイレーネに声をかけた。「おいで。イレーネ」「はい」イレーネが助手席に座るのを見届けると、ルシアンは扉を閉めて自分は運転席に座った。「私、車でお出かけするの初めてですわ」「あ、ああ。そうだろうな」これには理由があった。ルシアンは自分の運転に自信が持てるまでは1人で運転しようと決めていたからだ。しかし、気難しいルシアンはその事実を告げることが出来ない。「よし、それでは出発しよう」「はい、ルシアン様」そしてルシアンはアクセルを踏んだ――****「まぁ! 本当に車は早いのですね? 馬車よりもずっと早いですわ。おまけに少しも揺れないし」車の窓から外を眺めながら、イレーネはすっかり興奮していた。「揺れないのは当然だ。車のタイヤはゴムで出来ているからな。それに動力はガソリンだから、馬のように疲弊することもない。きっと今に人の交通手段は馬車ではなく、車に移行していくだろう」「そうですわね……ルシアン様がそのように仰るのであれば、きっとそうなりまね」得意げに語るルシアンの横顔をイレーネは見つめながら話を聞いている。その後も2人は車について、色々話をしながらルシアンは町の郊外へ向かった。****「ここが目的地ですか?」やってきた場所は町の郊外だった。周囲はまるで広大な畑の如く芝生が広がり、舗装された道が縦横に走っている。更に眼前には工場のような大きな建物まであった。「ルシアン様。とても美しい場所ですが……ここは一体何処ですか?」「ここは自動車を販売している工場だ。それにここは車の運転を練習するコースまである。実はここで俺も
翌朝――イレーネとルシアンはいつものように向かい合わせで食事をしていた。「イレーネ、今日は1日仕事の休みを取った。10時になったら外出するからエントランスの前で待っていてくれ」「はい、ルシアン様。お出かけするのですね? フフ。楽しみです」楽しそうに笑うイレーネにルシアンも笑顔で頷く。「ああ、楽しみにしていてくれ」ルシアンは以前から、今日の為にサプライズを考えていたのだ。そして直前まで内容は伏せておきたかった。なので、あれこれ内容を聞いてこないイレーネを好ましく思っていた。(イレーネは、やはり普通の女性とは違う奥ゆかしいところがある。そういうところがいいな)思わず、じっとイレーネを見つめるルシアン。「ルシアン様? どうかされましたか?」「い、いや。何でもない。と、ところでイレーネ」「はい、何でしょう」「出かける時は、着替えてきてくれ。そうだな……スカート丈はあまり長くないほうがいい。できれば足さばきの良いドレスがいいだろう」「はい、分かりましたわ。何か楽しいことをなさるおつもりなのですね?」「そうだな。きっと楽しいだろう」ルシアンは今からイレーネの驚く様子を目に浮かべ……頷いた。****「リカルド、今日は俺の代わりにこの書斎で電話番をしていてもらうからな」書斎でネクタイをしめながら、ルシアンはリカルドに命じる。「はい。分かりました。ただ何度も申し上げておりますが、私は確かにルシアン様の執事ではあります。あくまで身の回りのお世話をするのが仕事ですよ? さすがに仕事関係の電話番まで私にさせるのは如何なものでしょう!?」最後の方は悲鳴じみた声をあげる。「仕方ないだろう? この屋敷にはお前の他に俺の仕事を手伝える者はいないのだから。どうだ? このネクタイ、おかしくないか?」「……少し、歪んでおりますね」リカルドはルシアンのネクタイを手際良く直す。「ありがとう、それではリカルド。電話番を頼んだぞ」「ですから! 今回は言われた通り電話番を致しますが、どうぞルシアン様。いい加減に秘書を雇ってください! これでは私の仕事が増える一方ですから」「しかし、秘書と言われてもな……中々これだと言う人物がいない」「職業斡旋所は利用されているのですよね? 望みが高すぎるのではありませんか?」「別にそんなつもりはないがな」「だったら、
「イレーネ……随分、帰りが遅いな……」ルシアンはソワソワしながら壁に掛けてある時計を見た。「ルシアン様、遅いと仰られてもまだ21時を過ぎたところですよ? それに一応成人女性なのですから。まだお帰りにならずとも大丈夫ではありませんか? 大丈夫、きっとその内に帰っていらっしゃいますから。ええ、必ず」「そういうお前こそ、心配しているんじゃないか? もう30分も窓から外を眺めているじゃないか」ルシアンの言う通りだ。リカルドは先程から片時も窓から視線をそらさずに見ていたのだ。何故ならこの書斎からは邸宅の正門が良く見えるからである。「う、そ、それは……」思わず返答に困った時、リカルドの目にイレーネが門を開けて敷地の中へ入ってくる姿が見えた。「あ! イレーネさんです! イレーネさんがお帰りになりましたよ!」「何? 本当か!?」ルシアンは立ち上がり、窓に駆け寄ると見おろした。するとイレーネが屋敷に向かって歩いてくる姿が目に入ってきた。「帰って来た……」ポツリと呟くルシアン。「ほら! 私の申し上げた通りではありませんか! ちゃんとイレーネさんは戻られましたよ!?」「うるさい! 耳元で大きな声で騒ぐな! よし、リカルド! 早速お前が迎えに行って来い!」ルシアンは扉を指さした。「ルシアン様……」「な、何だ?」「こういうとき、エントランスまで迎えに行くか行かないかで女性の好感度が変わると思いませんか?」「こ、好感度だって?」「ええ、そうです。きっとルシアン様が笑顔で出迎えればイレーネさんは喜ばれるはずでしょう」「何だって!? 俺に笑顔で出迎えろと言うのか!? 当主の俺に!?」「そう、それです! ルシアン様!」リカルドが声を張り上げる。「良いですか? ルシアン様。まずは当主としてではなく、1人の男性としてイレーネさんを出迎えるのです。そして優しく笑顔で、こう尋ねます。『お帰り、イレーネ。今夜は楽しかったかい?』と」「何? そんなことをしなくてはいけないのか?」「ええ、世の男性は愛する女性の為に実行しています」そこでルシアンが眉を潜める。「おい、いつ誰が誰を愛すると言った? 俺は一言もそんな台詞は口にしていないが?」「例えばの話です。とにかく、自分を意識して欲しいならそうなさるべきです。では少し練習してみましょうか?」「練習までしな
イレーネ達が馬車の中で盛り上がっていた同時刻――ルシアンは書斎でリカルドと夕食をともにしていた。「ルシアン様……一体、どういう風の吹き回しですか? この部屋に呼び出された時は何事かと思いましたよ。またお説教でも始まるのかと思ったくらいですよ?」フォークとナイフを動かしながらリカルドが尋ねる。「もしかして俺に何か説教でもされる心当たりがあるのか?」リカルドの方を見ることもなく返事をするルシアン。「……いえ、まさか! そのようなことは絶対にありえませんから!」心当たりがありすぎるリカルドは早口で答える。「今の間が何だか少し気になるが……別にたまにはお前と一緒に食事をするのも悪くないかと思ってな。子供の頃はよく一緒に食べていただろう?」「それはそうですが……ひょっとすると、お一人での食事が物足りなかったのではありませんか?」「!」その言葉にルシアンの手が止まる。「え……? もしかして……図星……ですか?」「う、うるさい! そんなんじゃ……!」言いかけて、ルシアンはため息をつく。(もう……これ以上自分の気持ちに嘘をついても無駄だな……。俺の中でイレーネの存在が大きくなり過ぎてしまった……)「ルシアン様? どうされましたか?」ため息をつくルシアンにリカルドは心配になってきた。「ああ、そうだ。お前の言うとおりだよ……誰かと……いや、イレーネと一緒に食事をすることが、俺は当然のことだと思うようになっていたんだよ」「ルシアン様……ひょっとして、イレーネ様のことを……?」「イレーネは割り切っているよ。彼女は俺のことを雇用主と思っている」「……」その言葉にリカルドは「そんなことありませんよ」とは言えなかった。何しろ、つい最近イレーネが青年警察官を親し気に名前で呼んでいる現場を目撃したばかりだからだ。(イレーネさんは、ああいう方だ。期間限定の妻になることを条件に契約を結んでいるのだから、それ以上の感情を持つことは無いのだろう。そうでなければ、あの家を今から住めるように整えるはずないだろうし……)けれど、リカルドはそんなことは恐ろしくて口に出せなかった。「ところでリカルド。イレーネのことで頼みたいことがあるのだが……いいか?」すると、不意に思い詰めた表情でルシアンがリカルドに声をかけてきた。「……ええ。いいですよ? どのようなこと
イレーネが足を怪我したあの日から5日が経過していた。今日はブリジットたちとオペラ観劇に行く日だった。オペラを初めて観るイレーネは朝から嬉しくて、ずっとソワソワしていた。「イレーネ、どうしたんだ? 今日はいつにもまして何だか楽しそうにみえるようだが?」食後のコーヒーをイレーネと飲みながらルシアンが尋ねてきた。「フフ、分かりますか? 実はブリジット様たちと一緒にオペラを観に行くのです」イレーネが頬を染めながら答える。「あ、あぁ。そうか……そう言えば以前にそんなことを話していたな。まさか今日だったとは思わなかった」ブリジットが苦手なルシアンは詳しくオペラの話を聞いてはいなかったのだ。「はい。オペラは午後2時から開幕で、その後はブリジット様たちと夕食をご一緒する約束をしているので……それで申し訳ございませんが……」イレーネは申し訳なさそうにルシアンを見る。「何だ? それくらいのこと、気にしなくていい。夕食は1人で食べるからイレーネは楽しんでくるといい」「はい、ありがとうございます。ルシアン様」イレーネは笑顔でお礼を述べた。「あ、あぁ。別にお礼を言われるほどのことじゃないさ」照れくさくなったルシアンは新聞を広げて、自分の顔を見られないように隠すのだった。ベアトリスの顔写真が掲載された記事に気付くこともなく――****「それではイレーネさんはブリジット様たちと一緒にオペラに行かれたのですね?」書斎で仕事をしているルシアンを手伝いながらリカルドが尋ねた。「そうだ、もっとも俺はオペラなんか興味が無いからな。詳しく話は聞かなかったが」「……ええ、そうですよね」しかし、リカルドは知っている。以前のルシアンはオペラが好きだった。だが2年前の苦い経験から、リカルドはすっかり歌が嫌いになってしまったのだ。(確かにあんな手紙一本で別れを告げられてしまえば……トラウマになってしまうだろう。お気持ちは分かるものの……少しは興味を持たれてもいいのに)リカルドは書類に目を通しているルシアンの横顔をそっと見つめる。そしてその頃……。イレーネは生まれて初めてのオペラに、瞳を輝かせて食い入るように鑑賞していたのだった――****――18時半オペラ鑑賞を終えたイレーネたちは興奮した様子で、ブリジットの馬車に揺られていた。「とても素敵でした……もう
――18時ルシアンが書斎で仕事をしていると、部屋の扉がノックされた。「入ってくれ」てっきり、リカルドだと思っていたルシアンは顔も上げずに返事をする。すると扉が開かれ、部屋に声が響き渡った。「失礼いたします」「え?」その声に驚き、ルシアンは顔を上げるとイレーネが笑みを浮かべて立っていた。「イレーネ! 驚いたな……。てっきり、今夜は泊まるのかとばかり思っていた」「はい、その予定だったのですがリカルド様がいらしたので、一緒に帰ってくることにしたのです」イレーネは答えながら部屋の中に入ってきた。「ん? イレーネ。足をどうかしたのか?」ルシアンが眉を潜める。「え? 足ですか?」「ああ、歩き方がいつもとは違う」ルシアンは席を立つと、イレーネに近付き足元を見つめた。「あ、あの。少し足首をひねってしまって……」「まさか、それなのに歩いていたのか? 駄目じゃないか」言うなり、ルシアンはイレーネを抱き上げた。「え? きゃあ! ル、ルシアン様!?」ルシアンはイレーネを抱き上げたままソファに向かうと、座らせた。「足は大事にしないと駄目だ。ここに座っていろ。今、人を呼んで主治医を連れてきてもらうから」「いいえ、それなら大丈夫です。自分で手当をしましたから」イレーネは少しだけ、ドレスの裾を上げると包帯を巻いた足を見せる。「自分で治療したのか?」 包帯を巻いた足を見て、驚くルシアン。「はい、湿布薬を作って自分で包帯を巻きました。シエラ家は貧しかったのでお医者様を呼べるような環境ではありませんでしたから。お祖父様には色々教えていただきました」「イレーネ……君って人は……」ルシアンはイレーネの置かれていた境遇にグッとくる。「でも……まさか、ルシアン様に気付かれるとは思いませんでしたわ」「それはそうだろう。俺がどれだけ、君のことを見ていると思って……」そこまで言いかけルシアンは顔が赤くなり、思わず顔を背けた。(お、俺は一体何を言ってるんだ? これではイレーネのことが気になっていると言っているようなものじゃないか!)だがいつの頃からか、イレーネから目を離せなくなっていたのは事実だ。「ルシアン様? どうされたのですか?」突然そっぽを向いてしまったルシアンにイレーネは首を傾げる。「い、いや。何でもない」「そうですか……でも、嬉しいで